肥後武道の由来と変遷
熊本には、阿蘇国造の系統と考えられる阿蘇大宮司氏を始め、平安期に太宰府官人となって中央貴族と結びついた菊池氏、鎌倉期に遠江国相良荘から下向した相良氏等、各地に在地領主が群在していました。各地の在地領主は血縁で結合し、地縁により武士団を形成し、源平争乱では菊池隆直等が平定盛に応戦し、元寇では菊池武房、竹崎李長等が出陣し、南北朝争乱では各領主が南北朝各々に属して対戦しました。
天正十五年(一五八八年)豊臣大名として佐々成政が肥後の統治を命ぜられて着任しますが、隈部親永等が反発し肥後国衆一揆が勃発しました。豊臣秀吉は平定のため、立花宗茂等を派遣して鎮圧し、戦後処理に浅野長政等検地衆を派遣するとともに城郭整理を行いました。佐々成政は切腹に処され、肥後国は二分され、北半国と葦北郡を加藤清正に、南半国を小西行長に統治を委ねました。慶長五年(一六〇〇年)加藤清正が関ヶ原合戦の功で肥後国を統治することになり、慶長八年肥後守補佐を受け、慶長九年に検地を慶長十二年に統治拠点の熊本城を竣工させました。
寛永九年(一六三二年)加藤忠広は改易され、出羽国庄内に配流され、加藤氏の統治は終わりました。代って豊前小倉から細川忠利が転封され十二月九日熊本城に入城しました。細川家は細川藤孝(幽斎玄旨)が織田信長から山城国勝龍寺が与えられ、後に丹後国十二万石を領しました。続いて、細川忠興(三斎宗立)は関ヶ原合戦の功で、豊前と豊後国内二郡中津三十六万石を領し、細川忠利が、転封された肥後国と豊後鶴崎(大分市)五十四万石を領した。以後、明治二年まで歴代藩主として肥後国を治めました。
元々尚武の気風の強かった熊本でありましたが、細川重賢(霊感公)は、文武を振興し人材を養成して、国家治乱に備えるため、熊本城内二ノ丸に藩営教育機関の時習館を創設しました。広く人材を育成する為に、武士の子弟は全て時習館と両榭に入学する事を義務づけ、庶民や農民・商人・職人の子弟でも優秀で志ある者には、家老の推薦を受け、学校総教への届け出で入学が許されました。
創建期の宝暦四年〜十年(一七五四〜六〇年)は、兵法五流派・射術七流派・槍術五流派・剣術十六流派・居合術九流派・柔術小具足六流派・薙刀・棒術三流派・馬術四流派・遊二流派・砲術十流派合計六十七流派ありました。
末期の明治四年の版籍奉還時でも、兵法五流派・射術五流派・槍術五流派・剣術十五流派・居合術九流派・柔術小具足六流派・薙刀・棒術三流派・馬術四流派・遊二流派・砲術十流派合計六十四流派で盛んに練武していました。
明治維新の大変革と、明治四年の廃藩置県によって、武士は禄を失い、西洋文化の伝来で日本の世情は一変し武道は急速に衰退しました。明治後半・大正・昭和初期と流派によっては復興するにつれ、大日本武徳会が全国に組織されて、武道も盛んになりました。
昭和二十年、日本は敗戦し、戦後の混乱期に捨て去られるかと思われましたが、戦後復興期に入り、スポーツの振興が力強く押し進められ、武道も新しいスポーツ競技武道として盛大に振興して参りました。日本古武道協会が昭和五十四年二月に設立されて以来、本年で三十六周年を迎えました。現在、加入流派は八十三流派であり、これは、全国各地に伝承されている有名流派のほとんどといってよく、全国の古武道修業者は数千人と推定されます。平成十九年二月十一日には、尚武の国・熊本で第三十回の記念すべき大会を開催し、加藤清正公の熊本城築城四百年記念祭に華を添えることになりました。
平成二十九年現在、熊本県古武道会では、兵法一流派・射術三流派・剣術八流派・居合術三流派・柔術一流派・薙刀一流派・棒術二流派・弓馬術一流派・武術二流派・炮術一流派・游術一流派合計二十三流派で、各流派一丸となって、正しく伝承するべく努力しています。
熊本県古武道会
理事長 竹原陽次郎