剣聖宮本武蔵は生涯を行雪流水の求道の旅で終り、三十才の前半を諸国の兵法者と戦い、五十一才に至る約二十年は史実的に全く空白で東西に剣客の旅を続け、寛永十一年、五十一才のとき養子宮本伊織を伴って小倉に現われ、伊織を小倉の小笠原家に仕官させ留まること六年、寛永十四年島原の乱には武蔵は伊織とともに小笠原忠真の軍に従い作戦に参画し、伊織は殊勲があり家老の要職につき、その後武蔵は寛永十七年に肥後の細川忠利侯に招かれ、単身肥後細川藩の軍事顧問として細川家の客分となり、肥後千葉城に居住しその翌年寛永十八年二月に忠利侯の命をうけ「兵法三十五箇条」を献上しました。その二年後、寛永二十年十月十日に兵法三十五箇条を骨子とした五輪の書を霊厳洞に籠り執筆し、正保二年五月十二日寺尾勝信に完成した五輪の書を授け、寺尾信行には三十五箇条を授与して師範相続の証とし、以来二天一流は寺尾一族により師範家の継承が行なわれてまいりました。

二天一流は世に言われている二刀流ではありません。構えあって構えなしの片手剣法が武蔵の真意です。いろいろな論議はありますが武蔵は春山和尚より二天道楽という号を授けられたと伝えられており、その二天をとり二天一流を名付けられいわば「武蔵の一流」ということで、武蔵は五輪の書に初めて我が流を「二天一流と号し」という言葉で流派名を使い、五輪の書を書かれた時点で二天一流の名称が浮かびあがり、このあと二天一流は肥後藩内の相伝として確立され、若き日から壮年期における実戦の体験から得た「円明流」並びに「兵法三十五箇条」を再吟味し、最後に五輪の書「水の巻」に完成された二天一流「五方の形」こそ武蔵の残した「実相円満之兵法逝去不絶」と自称の如く完璧なるものです。武蔵の他界後、師範家はその高弟寺尾家の諸子により継承され、その後寺尾信行の第五子信盛と第六子勝行が父の業を承け、その門弟達は伝統を五流派に分かれ、藩外不出として後世に伝えられ、江戸末期には野田、山尾、山東の三流派が継承され、明治から昭和にわたり断絶或いは再興、県外流出の流派もあり、現在では師範家として野田派のみ連綿として熊本に現存しております。

【由来】

  流祖 宮本武蔵玄信

  二代 寺尾求馬之助信行

  三代 新免弁助信森

  四代 村上平内源正雄

  五代 村上八郎右衛門正之

  六代 野田三郎兵種信

  七代 野田三郎兵衛種勝

  八代 大塚庄

  九代 大塚又助

  十代 野々村市作

 十一代 伊津十内

 十二代 野田三郎八

 十三代 野田辰三郎

 十四代 加納軍治

 十五代 指田次郎

 十六代 古賀徳孝

 十七代 志岐太一郎

 十八代 一川格治

 十九代 神尾宗敬

 二十代 大浦辰男

二十一代 井上光芳

​二十二代 荒木章博

【系譜】

<連絡先> 野田派二天一流二天会事務局       

〒860-0047 熊本市西区春日1丁目3-15

℡ 096-324-1592 

野田派二天一流

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