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タイ捨流
【由来】
流祖丸目蔵人佐長恵は、天草伊豆守のもとで二年間の修行の後に、永禄二年(1559年)十九歳の時に京に上る。当時、関東一の槍の名手と言われ、「剣聖」と仰がれた上泉伊勢守信綱の門人となり新陰流の修行を積んだ。天性の技量と修練により、めきめきと腕を上げ、神後伊豆、疋田文五郎、柳生宗厳と共に、若くして新陰流伊勢守門下の四天王の一人と呼ばれるようになった。永禄七年、流祖長恵は第十四代将軍足利義輝公の御前上覧演武にて打太刀をつとめ、上泉の兵法は「天下一」、丸目の打太刀は「天下の重宝」との感状を義輝公より賜った。その後、新陰流を九州全域に広め、「新影タイ捨流」として柳川藩主立花宗茂公や豊後の大友宗麟公に秘伝を伝授し、多くの門弟を育成して「東の柳生、西の丸目」と言われるようになった。その後、柳生新陰流が徳川幕府天下の剣術となったのを機に、「新陰」を除き「タイ捨流」として独自の道を歩む。技の名称は新陰流と同じであるが、業は新陰流を打ち負かす技とある。
日本の古武道にめずらしく「タイ捨」とカタカナを使用している理由は、漢字で表記すれば「体、待、太、対」など漢字表記に捉われるので、あえてカタカナで記すとされているが、人吉相良藩の記録古文書「南藤蔓綿録」には「大赦流」「体捨流」と書かれている。
【系譜】
初代 丸目蔵人佐長恵
二代 神瀬軍助惟幸
三代 相良庄次郎頼武
四代 相良佐兵衛長房
五代 神瀬五右衛門惟宣
六代 小田七郎右衛門定矩
七代 小田夕可定紀
八代 小田直左衛門定能
九代 小田金駄左衛門定記
十代 小田八郎左衛門定直
十一代 佐無田忠蔵良興
十二代 小田夕可定孝
十三代 山北竹任
十四代 西島淳一